昭和42年10月20日 朝の御理解
昨夜は合楽の合楽会という会を作って信心の共励を致しておりますその例会日でございました。ほんとに回を重ねる毎に信心の有り難さと金光様のご信心の有り難さといやほんとに合楽の金光様が合楽の地区においで頂いたということが、いかに合楽の者の心の潤いになるか又は糧になっておるかということを皆さん一口づつではありますけれども発表されました。ほんとに私丁度勇さんやら大和さんあたりが一緒に参加しておられましたがもうほんとに一人一人の人達のお話しがそのままあなた方が他の共励会なんかに行って話される話の、云うなら材料にもってこいですねというて話したことでございました。
もう何と言うでしょうかね。まだ云うならばここ半年余りの信心ですが、信心はまだ初である。けれどもなんとはなしに信心の有り難さというものがですね。
先日から教祖大祭を拝ませて頂いてといったようなことをひとつテーマにして皆さんが話されたんです。その中に私は金光様の御大祭は初めて拝みましたという婦人が発表しております。お祭りが始まって楽が始まる。先生方が参向になります。そうしましたらそれをちょっと拝ませて頂いた途端にですね、胸が苦しゅうなる。胸が熱うなって悲しゅうなりましたと言うております。ほんとに信仰的ひとつの感動でございますね。
悲しいまでに悲しいまでに感動をしておられます。皆さんはどうだったでしょうか。かえって御大祭というものは、あげんしなさるものだと分かっておる者の方が感動がないのかも知れせんね。中には半年前の春の御大祭にはお参りをさして頂こうと用意をして、そして畑に行っておられる。舅親であるお父さんに金光様の御大祭じゃからお参りさしてもらうと言うたところが、お父さんが返事をして下さらなかった。どうにも少しこちらまで出かかったけれども、とうとうひっくりかえってお参り出来なかった。それが半年前でございます。ところがこの度はこのお父さんがお参りをされました。もう帰って来てからお参りを初めて頂いたが有り難かった、有り難かったのうと何辺それを言われたか分かりませんでした。という発表をしておられる若い婦人の方がありました。
半年の間に私の方の家に私がお参りをする、お母さんが参られるようになり、初めてではございましたけれども、お兄さんがお参りになられてから、ほんとに有り難かったと何辺言ったかわからないというように、おかげを受けておられます。ここにお参りをしておられます西田さんの発表のなかにもあの感激のるつぼの中に皆が有り難い、丁度横に年を取った夫婦の方がお参りしておられました。どちらからお参りですかと言うと私共佐世保から参っております。はあ、佐世保からまでもお参りになられますか。私共夫婦は毎月こうしてお参りをさせて頂きます。ほんとに私共足元におってからと言ってから思いましたが、その御夫婦にゆっくりお参りを拝まれて帰られたら遅くなりましょうから、私の家でよかったらどうぞ、私の家に泊まりに来て下さい、と申しました。大変喜ばれたというような発表をしておられます。ほんとに初めて逢うた者がそれがお道の信心に繋がる、そこにはですね、なんていうか親戚のようなものが感じられます。
心と心の交流というものは素晴らしい。合楽の方達はほとんどが屋外のご直会の係を受け持たれました。熊本からお参りにおいでられたその中に色々な話を聞かれてほんとに感動した。遠方からお参りになっておられる或る熊本の方が話しておられました。私はほとほと感心しました。実は私の方の主人は信心がございませんので私は椛目、いや合楽にお参りをすることがあんまり好みません。それでもやはり、今日のお祭りにはお参りせずにおられないと思うてお参りしましたが、もう早く帰らせて頂きませんと主人が勤めから帰ってまいりますから、すぐ帰るというような話を聞いた。ほおう熊本からですか。熊本から主人が帰られる前にちょっと参って来た。ほんとに合楽の者ならともかくも熊本あたりからそういうようなお参りがあります。汽車ならすぐ着きますけんと言われたということであった。そういう尽きることのない、もう十二時までになっとりますから時間が参りましたから打ち切らせて頂いたんですけれども、ほんとに信心、生きた信心の感動と申しましょうか、その中にあっておかげを受ける。
或る方が商売をしておられる。それがほんとにお参りをしておる後先におかげを受けて近所の方達を皆連れのうてお参りが出来たという話をなさっておられました。一番最後に会長さんの中村さんが発表しておられましたが、前夜祭からの感激、御用頂いての有り難さ又信者の一人一人が御用奉仕をなさっておられる姿というものにです、とにかくただ驚きという言葉をもってするよりほかなかったと、とりわけお米とお神酒のお供えがあった時にあれを人に見せるのではない、神様に見て頂くのだというあの時にここで前夜祭の時にお供えの云わば飾り付けをなさっておられる方が云われたのに驚きました。大概のものは何十俵というお米を云わば七丁からなるお酒をこっち向けてから皆に見せなさるかと思いよったところが箕の陰にそれをお供えしてある。何と信心ということの奥ゆかしさというものを感じ取った。又は御用の尊さ、有り難さがほんとに分からせて頂いた。私共合楽の者もほんとに皆さんどうぞ本気で信心させてもろうて本気に御用させて頂こうじゃないですかといったようなことで最後に締めくくられましたがね。そういう私はほんとに合楽の人達のここ云うならば半年余りの信心がですね、そういうように心を神様に向かい、しかもそういう初な感激の中にですね、ここ合楽の地に金光様が御奉祭になられたということを一同の者が喜んでおられる。以前の間は色々非難する者があって、あーやこーやと話が必ず出ました。
ところが、全村挙げての喜びであるという意味のことを話しておられましたがです、ほんとに有り難さが合楽だけに止まらず、丁度常持の横の部落ですね、の或る方が金光様に合楽の方達だけしか参られんとですかと云った人があった。そげなことはなかですよ、合楽の者は皆参るばってん、大橋辺には案内も来んけん参りもされんとこう云われた。ほんとに合楽から常持、常持からニナガワへと、例えばこの大橋の町全体がそういう金光様の有り難さが分かっていって、そういうおかげを頂く。それには例えば、昨日皆が発表されるように、あの御大祭を拝ませて頂いたあの感動が日々の信心生活の中に頂けるようになり、そういう信仰的一つの喜びというものがどういう信心させていただいたら、あいう感動が受かられるかと云ったような事を考えられるようになり、そこを焦点に信心されるようになったら大変なことであろうと私は思いました。皆さんもこうして信心の稽古をなさっておられるのです。中に久富勇さんがお話しなさっとられました。皆さん御大祭頂いてほんとに共々に感激でございましたね。そしてあのいかに合楽の信心が有り難いかということがわかりましたですね。次々他の先生方のお話しも頂きました。ほんとに長い間のお話しでしたけれども、あれは云うならば百年前のお話しでございまいたねということでございました。モジ先生のことでございましょう。斎藤先生のおかげを受けられたお話しを中心にしてのお話しでございました。
ところが、ここへお参りをさせて頂きますとほんとにあれ以上のおかげを受けた人達のお話しとそれに対する信心の裏付けというものがです、朝晩ここの親先生は語って下さる、教えて下さる、それが合楽の信心のいよいよ有り難いところですよ。百年前の話でもあれくらいに有り難いのですから、今日的な信心の中に、しかもあれと同じようなおかげをここでは受けておる。それが有り難いじゃないですか。云うなら先輩らしい発表なされておられます。どうでしょうか。皆さんあの御大祭を頂いて、一口に皆さんがあーだった、こーだったということを皆の心の中でひとつ話してみてごらんなさい。各々どのくらいのあのお祭りの感動というものが皆さんの心の中に頂けたか、そしてそれが信心の云うなら基調になるものですからね。ご大祭の時だけの感激ではなくて、それを持ち続ける為に工夫する。それを持ち続ける為に修行をする。為にお話しを頂くということになったら、朝晩のお参りが、頂く御理解がいよいよ有り難いものになってくると思うですね。 どうぞ。